学校の勉強は役立つ! けれど誰も覚えていない

考える棒人間の絵です

知識が無いと考えることができません。
考えることができなければ、新しい能力が身に着きせん。

しかし、能力が身に付いた後なら、それまでの知識を少しくらい忘れてしまっても大丈夫です。

今日はそんなお話です。

学校の勉強ってなんだろう?

学校で習った知識が役に立つか立たないか?

「別に役に立たないよ。」
「じゃぁ何でこんな勉強させるの?」

こういう会話、よくありますよね。

これまで教科書改訂や教育改革が何度もされてきました。
しかし教科書の内容は、相変わらず役に立たない知識が盛りだくさんです。

なぜでしょう?

思考回路ができるまでは正確な暗記が必要

最初のうちは知識を覚えて、その知識を使う訓練を何度もします。
その内に、知識を使いこなす思考回路が頭の中に出来上がります。
すると、以前よりも早く効率よく考えられるようになります。

この状態になればひと安心です。
多少の知識を忘れても、思考回路はなかなか消えません。

「思考回路」と「知識」の関係は、
「電子回路」と「電池」の関係に似ています。

電気製品は、電池が切れたら交換すれば、また使えます。同じように、
思考回路も、知識を忘れたら、また調べればすぐ使えるようになります。

電卓やエクセルは子供より大人の方が使いこなせます。

大人は細かい公式や計算のテクニックを忘れているかもしれませんが、
数の性質を利用する思考回路が、子供よりも強く頭の中に焼き付いています。

教科書の知識を不要だと大人が言うのはズルい

このように大人の脳内には、いろいろな思考回路ができています。
それをつくるために、学生時代に多くの知識を活用してきました。

しかし、かつて暗記した知識の多くは、もう忘れています。
ましてや、その知識をどうに使ったかなど、覚えていません。

「思考回路」つまり「考える力」が手に入ったからです。

思考回路さえあれば、忘れた知識など、調べればすぐ復活します。
コンピューターの補完機能を使えばミスも防げます。

この域に達した大人が、今の子供を見ると、

学校で正確な暗記を生徒に求めるのは無駄じゃないか?
暗記より考える力の方が大切だ!
問題解決力だ!

などと思われるでしょう。

しかし「考える力」は正確に暗記した知識によって作り上げられたはずです。
その過程をすっとばして思考回路を手に入れられる方法は、今のところ誰も知りません。

逆に考えてみてください。

もしも、あいまいな知識で訓練をしたらどうなるでしょう?

あいまいで不正確な思考回路が出来上がってしまいます。
具体的な提案ができない、誰でも賛成できる抽象的なことしか言えない、
そういう思考回路しかできません。

ミスを多くしてしまう人、計画を具体化できない人、上司に何度も同じ注意をされてしまう人は、
訓練の過程で用語や知識をあいまいに記憶していることが多いです。

まとめ

若いころは、まだ思考回路が未熟です。
学生は、知識を正確に暗記したうえで、それを使う訓練を積む必要があります。

思考回路を手にしてしまえば、少しくらい覚えた知識があやふやになっても大丈夫です。
大人は教科書の半分を忘れていますが、特に仕事では困っていません。
その域に達したら、ちょっとくらい

「知識よりも考えることが大事だ!」

などと豪語してみるのもよいでしょう。

しかし、それは社会人同士で語る場にしましょう。

その言葉を学生に押し付けるのはやめましょう。
物事には順序や段階というものがあります。

 

私の文章は長いので、ここでいったんまとめました。
ここから先は、もう少し深く考えます。

知識がない=見ない聴かない

人がなにか行動を起こすときには、

認知(見る、捉える) → 判断(考える) → 行動

というサイクルが頭の中に働きます。
そして、知識が無いと、まず認知ができません。

例えば、道端にダイヤモンドの原石が落ちていたとします。

ダイヤの原石を見たことが無ければ、ただの石にしか見えません。
興味が無いので、その石を見たことすら忘れてしまうでしょう。
逆に知っていれば、直ぐに拾い上げて、その価値を調べ始めるでしょう。

また、皆さんがペットボトルの水やお茶を買うことも同じです。

わざわざお金を出して、水やお茶を買う人なんていない。
昔はそう思われていました。
今では多くの人が、水やお茶を持ち歩く便利さを知っています。

人は知識が無ければ、ものごとを認識することができません。

義務教育で知識が詰込みになるのは、ある程度は仕方のないことです。

何も見ない、何も聴かない、という視野が狭い人間になっては困ります。

知識がない=考えることができない

知識を得ようとするのも行動ですから、その行動をする前段階の知識が必要です。

また、知識が不十分なうちに「考えよう」と言われても、考えることができません。
考えることとは、知識と知識をつなげることがだからです。

夏休みになると、原子力発電や税制度について作文を書かせる課題がよく出されます。

もちろん、多くの学生は具体的な事なんて書けません。
いきなり専門的な内容をテーマにされても、悩むだけで考えが進みません。
締め切り間際になって、しかたなく、だれもが賛成できるような抽象的な内容を書きます。

頭を動かすにしろ、体を動かすにしろ、知識が必要です。

今後の教育改革では子供が自ら学ぶアクティブラーニングがポイントになります。
教師の仕事は子供たちに行動を促すことです。
それはテーマという知識をあたえたり、ある子から発信された知識を他の子へ受け渡す役割だと言えるでしょう。
けっして無言で見守ったり「もっと考えろ!」などとムチャぶりすることではありません。

アクティブラーニングや創意工夫を重んじる教育では、しばしば知識を軽んじてしまう勘違いが起こります。

知ることと考えることの区別をわざわざする必要はないと私は思います。

あとがき

教育論についてブログに書くと、ちょっと厳しい先生だと思われるようです。

「松下先生は、想像してたよりソフトな印象ですね。」

とよく言われます。
文章から受け取られる印象と実物が違うみたいです。

ブログは話し言葉で書かれるのが普通ですが、私は文章用の言葉で書きます。
それで硬い印象になるのかもしれません。

どちらにしても、教育について何も意見を持たないのは寂しいので、やっぱり今日も書きました。

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