こんにちは、塾長です。
ここ最近ずっとテスト対策やら夏期講習の準備やらで超忙しくて、しばらくブログに手が回りませんでした。
テスト対策で授業が増えると、学習報告で文字を書く量も増えます。今ざっと計算しましたが、保護者様に送る学習報告だけで1日に6000~9000文字も書いていました。ブログを書く体力も時間も残らないわけです。
さて「教育虐待」という言葉をご存知でしょうか。
ここ2週間ほど、教育虐待を扱う記事や番組をテレビや新聞でよく見ます。今なぜ話題になっているのかと言えば、6月21日にある事件の初公判が行われたからです。2年前に名古屋で起こった、とても痛く悲しい事件です。
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名古屋の悲しい事件
2016年8月、名古屋のあるマンションの一室で、小学6年生の男の子が包丁で刺されて亡くなりました。受験勉強が進まないことに腹を立てた父親が、実の子を包丁で刺したのです。学校ではとても優秀で良い子だったそうです。
父親は自分と同じ中学を息子に受験させようとしていました。しかし勉強が進まないことや、自分が小学生だった時よりもできない事などに腹を立て、ことあるごとに息子に体罰を与えていたようです。その体罰は、やがて刃物を使うまでエスカレートし、そしてついに事件が起こってしまいました。
親を信じながら、その親に未来を奪われてしまった男の子のことを思うと、とても胸が痛くなり、ひたすら悲しくやりきれない気持ちにさせられた事件でした。この歳になると、どうしても自分の子供が重なってしまい他人事には思えません。なぜ受験ごときで命を落とさなければならないのか。私は塾で勉強を教える身ですが、命に比べてしまえば勉強「ごとき」で命を掛けてはいけないと思うのです。
躾と称して親権を乱用し、我が子に暴力をふるったり精神的に追い詰めてしまう児童虐待が後を絶ちません。教育虐待もその1つです。
教育虐待とは?
まず教育虐待の意味を調べてみましょう。Wikipediaによれば次の通りです。
教育熱心過ぎる親が、過度な期待を子どもに背負わせてしまい、思うとおりの結果が出ないと厳しく叱責してしまうこと (https://ja.wikipedia.org/wiki/教育虐待 より)
私学の小学校や中高一貫校を受験する、いわゆる「お受験」で話題になることが多いようです。
多くの場合、お受験を通じて親子の信頼関係は増すものです。そうしなければ乗り越えられません。
その一方で、逆に子供の意志を無視したり、子供の体力の限界を超える課題を課したり、点数だけで子供を評価し人格を否定したり、子供の成績を親のプライドの糧にしたりすれば、いずれ虐待につながります。
資源が乏しい日本で、この変化の激しい現代において、将来のために子供にしっかり勉強させてやりたいと思うのは、親として自然なことです。その思いが、身勝手な感情にゆがめられてしまわないように気を付けたいものです。
同時に、中学お受験で悩み、心理カウンセラーにお世話になる保護者の数が、年々増加していると聞きます。
お受験で大切な塾選び
下手に受験競争をけしかけてくるような学習塾は、どうかと思います。頭に鉢巻をしてテストで1番を目指すような単一思想の時代は、もうとっくに終わったと思うのですが。
中学校のアドミッションポリシーは昔と違い、実に多様化してきています。子供の本音をくみ取り、親子の間を取り持ってくれるような、暖かい塾でお受験を乗り切って欲しいものです。点数以外で合否を決める試験形式も増えつつあります。
と、ここまで書いておきながら、すみません。うちは中学お受験を専門にやっておりません。東海中学、滝中学、南山男子、南山女子をお受験したいなら、近隣のお受験専門塾へお問い合わせくださいませ。
名古屋市緑区なら「あかつき塾」さんがお勧めです。
教育を受けさせないのも虐待です!
逆に、子供の教育に無関心であったり、養育を放棄してしまうのも虐待です。これは「教育虐待」の逆で、「教育しない虐待」とでも言いましょうか。
塾に来る生徒ならまず問題にならなそうですが、全くないわけではありません。例えば、こんなギリギリの例なら、むしろ多く見てきました。
「うちの子は女の子だから、そんなに勉強ができなくてもいいです。普通でいいです。」
このような場面。いかがでしょう。悲しいことに日本では今だに多く耳にします。こんなのは文化でも伝統でも何でもありません。一部の先進諸国からしたら、これも虐待に見えるでしょう。少なくともジェンダー問題には引っかかってきます。
言葉の暴力、力の暴力、無関心や無視、性差別など、子供に対して自己中心的で極端な関わり方を続ければ、なんにせよ虐待にあたります。
1日10時間の勉強は虐待になるのか?
さて本題です。これから夏期講習の時期です。特に受験生は過去2年間の復習をして基礎力をガッチリ固めるチャンスです。2学期になれば次のテスト対策も始まります。
「自分ができたからお前もできる」の間違い
私は大学受験の時に1日13時間くらい勉強しました。もちろん、もっと少ない時間で済んだ人もいたでしょう。しかし他人は関係ありません。自分でそれくらい必要だと思ったからです。浪人生でしたから、勉強以外にやることがありません。当然ですね。サラリーマンに例えれば、1日5時間の残業、月100時間の残業に相当するでしょう。私の年代の人間でしたら、よくある話です。昨年、プログラミング教室のマイクラミングを開発した時も、それくらい根詰めてやりました。何かをやろうとするならば実に普通の努力です。日本中にそんな人は五万といるでしょう。世界中なら1億人以上いると思います。自分だけが大変だ、特別だ、と思ったら苦しいだけです。
では、生徒たちにも自分と同じように「君たちも13時間やれ。」と言えるでしょうか。そんな簡単ではありません。私がそうしたのは、勉強で頑張ること、なおかつ1日に13時間勉強すること、というのを単に私自身が自分で決めたからです。自分の限界を決めるのは自分です。こればっかりは生徒自身が、自分で決めてやるしかありません。
私が生徒に示せるのは、志望校や目標点に相応しい努力の水準を教えてあげることです。また今やっていることが作業ではなく勉強になるように導くことです。そうした水準の努力を実際にやるのか否か、24時間の中で勉強に何%を割くのかは、本人が心の奥で決めています。それを超えることはできません。
必ず3者で面談する理由
ヒーローズの面談は生徒、保護者、私の3者で行うのが基本です。
ぶっちゃけてしまえば、保護者様と私だけで面談した方が多くの授業や講習を取ってもらえます。私の話しに共感して下さる保護者様が多いからです。経営の面から言えば2者面談の方が良いのです。
しかし、そうはしません。それでは勉強になりません。なぜなら勉強するのは生徒自身だからです。その本人が不在のもとで講習や授業数を決めても、意味が無いからです。もしも私が生徒なら、自分のいないところで決められた講習なんて、参加しろと言われても納得しないでしょう。自分がされて嫌なら、生徒にもしません。
生徒の本音は隠れやすい
そしてもう1つ。生徒を混ぜた面談が必要なのは、多くの生徒が心の奥で思っていることを隠しているからです。それを本人から引き出さないことには勉強量が決まりません。
「どうせ無理だ。」「努力は恥ずかしい。できなかったときに笑われる」・・・
私もそうですが、ついつい虚勢を張りたくなる時だってあるでしょう。
「大人の言う通りの勉強なんか、してやるもんか。」・・・
親子のケンカで意固地になってしまうケースも多いです。
精神年齢が幼いほど「自分の将来と他人の言動は関係ない」という強い意思が持てません。親や友人の言動に左右されやすく、それだけ本音が隠れてしまっています。大学受験より高校受験の方が、その点で難しいです。
生徒の本音が勉強時間の限界を決める
そういう虚勢や意固地を取り払って、自分の将来をひたすら自分のために考えてもらったとき、本当はどうしたいのか。それを問うのです。そして、生徒の本音で本当に挑戦すべき勉強量が決まります。生徒が持っている価値観で勉強量の限界が決まります。
これはキレイごとではなく、勉強の本質を考えれば、とても当たり前のことです。
勉強の本質を知っていれば、虐待になりようが無い
勉強は本人がします。そして「勉強」とは、できないことを「できるようにする」ことです。できるようになるということは、本人の脳の構造や体のどこかが何かしらの変化をするという事です。つまり勉強とは、ひたすら「本人の脳や体の内部」で実現される「変化」なのです。
ですから外部の人間がしてやれることは、環境の用意までです。私の教室なら、教室の机を用意し、知識と価値観を伝授できる講師や教材を用意することです。そこまでしか、してやれません。
用意した環境、用意した知識、用意した価値観を受け取った後、そこから先の変化は、もう本人の内部で起こることになります。それらをどう重みづけし、どこまで受け入れ、自分の脳や体の変化が引き起されるまで大切に保持し続けるのか否かは、ひたすら本人の意思にかかってくるのです。
人間は自分が聞きたい、見たい、思いたい、と思うものしか取り入れません。そして、何を聞きたい、見たい、思いたい、と思うのかが価値観です。
この根幹にある価値観の変化は非常に時間がかかります。
価値観をねじ伏せるのは虐待の始まり
逆に、生徒の内部にある価値観を「俺の指導力で一気に変えてやろう」と考える大人や先生がいたら、それこそ虐待の危険があるわけです。「何で俺の言うことが聞けないんだ!」となるのは時間の問題です。
失点や×を叱るのも虐待の始まり
例えば、できた事ばかりに注目する「〇付け」しかしない生徒に「×付けをしよう」という正しい価値観を受け入れてもらうには、半年単位の継続的な指導と、ご家庭の理解の両方が必要です。
長い指導で、間違えを前向きに捉えてくれるようになり「×付け」をできるようになったとします。やっと「できない」を積極的に見つけて「できる」に変えるスタンスになったとします。ところが、もしも学校や家庭で「何でこんな問題もできないんだ!」と叱られたりバカにされたりすれば「×を見せたくない」となってしまい、また「〇付け」の価値観に戻ってしまいます。
勉強の効果を台無しにする成果主義
勉強は○より×が大切なんです。「できない」を「できる」に変えるのが勉強なのですから「できない」の発見が出発点なんです。「×は恥ずかしいから○しか付けない」という価値観である限り、勉強にはなりません。しかし間違いを人に見せる恐怖が本人を直ぐ支配してしまうのです。そしたら、また長い時間をかける必要があります。それの繰り返しです。
大人は社会に出て仕事をしています。仕事では「できる(能力)」を駆使して生産します。それが短期で求められます。仕事なのに勉強をする人なんていません。会社で勉強をするなら、給料をもらうのとは反対に、授業料を払わなくてはなりませんからね。
しかし子供の勉強は、その「できる」をこれから多く準備していこうという段階です。しかも、あらゆる能力の基礎(組み合わせの元)となる能力を開発しているのです。そこに時間をかける価値があります。大人が仕事で使う能力がペンやカッターなどの道具だとすれば、子供が教育で身に着けている「できる」は元素みたいなものです。目には見えませんが確かに材料になっているという素地です。
こうした勉強の本質を理解していれば、できない事を叱ることもないし、大人の成果主義を子供の勉強に押し付けて追い詰めることも無いはずです。
勉強で叱ることは無くても、人として叱ることはある
勉強の本質を考えれば、勉強の指導では、ほとんど「叱る」も「怒る」も必要ありません。
それでは教育現場で叱る必要が無いのかと言えば、それはそれでウソになります。勉強の中身で叱る必要はなくても、勉強を害する価値観は正しますし、他人の勉強を邪魔するような言動は叱らなければなりません。
人の勉強を邪魔したり、点数の低い人を馬鹿にしたり、努力すべき時間に努力しなかったり、先生の話を聴かずに出来ない出来ないと喚いたりするするのは、人として恥ずべきことなので、叱りますし、伝わらなければ怒る感情も一緒に出てきます。
ただし学習塾は慈善団体ではありませんから、他の生徒の迷惑になる前に、素行の悪い生徒は教室から追い出してしまいます。もっとも生徒の本音を聞けば、可哀そうな子だという事が分かって、そうはならなんですけどね。ですから長い目で見れば、やはり学習指導において「叱る」も「怒る」も不要です。
まとめ
- 理不尽な勉強を強要するのも、逆に勉強させないのも、どちらも虐待
- 勉強時間の限界は、子供の本音つまり価値観が決める
- 勉強の本質は「できない」を「できる」にすること。それを邪魔する間違った価値観の押しつけは虐待の原因になり得る
- 勉強の指導には「叱る」は不要
- 勉強ではなく、人として間違った言動に対しては「叱る」べき
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