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最適解

プログラミングが不要になる? 噂のウソとホント

プログラミングが無くなる?

コンピューターと宇宙が大好きな塾長です。

今回は「もう少しすると教育業界でも騒がれそうな話題」について、一足先にお届けしてみようと思います。
個人的には、騒がれずにやり過ごして欲しいと期待したいのですが・・・

プログラミングが不要になる!?というウワサ

昨年(2020年)の秋くらいから、どうも日本のIT業界では

「もうすぐ、プログラミングをしない時代になる」

などと騒がれているようです。

「ノーコード」

というキーワードが、どうも日本でバズり出したようです。

どういうことでしょう?

ちょっと端的に説明します。

これまで「プログラミング」と言えば、こんなイメージでした・・・

プログラミングのイメージ

今後、それがこんなイメージに変わっていきます・・・

bubbleの画面イメージ

実は、どちらもアプリを開発している画面です。
でも、ぱっとした見た目から違いますよね。それで、

「おお、なんと画期的!!」

と騒がれているのです。

ひょっとして、デジャブ?

実は、みなさんも似たような変化を経験しています。

パソコンやタブレット。
今はとても使いやすいですよね。

昔と今ではコンピューターの操作が

  • 昔: コマンド
  • 今: クリック(タップ)

というふうに変わりました。
昔は難しかったコンピューターの操作が今では簡単です。

クリックで済む!

という変化です。

例えば、Windows10でお絵かきソフト「ペイント」を起動させる方法は、このように変わりました・・・

昔:コンピューターの操作が、黒い画面にコマンドを打つ操作

コマンドでペイント起動

から、

今:マウスでクリックする操作

GUIでペイント起動

に変わりました。

マウス操作の方が楽ですよね。
コマンドを覚えなくても良いし、とりあえずマウスだけカチカチしてたら操作できます。

こうした変化のおかげで、コンピューターを使う人が爆発的に増えました。1990年代のことです。

これと同じような変革が、いま、プログラミングの世界でも起こっています。

かつて、難しい「命令(関数)」や文法を駆使してプログラミングしていた作業。
これが画面上のマウス操作に置き換わっていく、という変化です。

そう、時代は繰り返すのです!

そう考えると、これは90年代のデジャブなんですよね。

もっと言えば、その90年代には、マウスでプログラミングできる機能エクセルやアクセスにすでに組み込まれていました。

例えば、エクセルの「マクロの記録」という機能を使ったことがありますか?

ビデオ録画の要領で人間の操作手順をエクセルに覚えさせる機能です。エクセルが裏でプログラミングを自動でしてくれるのです(少しプログラミングの編集作業が必要です)。
また、エクセルやアクセスには、入力画面(フォーム)をマウス操作で組み立てる機能があります。
これらの機能を使えば、ちょっとしたアプリの開発が、マウス操作メインでできるのです。

このような機能が25年くらい前からエクセルやアクセスにずっと備わっていました。知らない人は大きな損をしていたと思います。
エクセルのマクロは今ではほとんど使われず、新しい技術に置き換えられてしまいましたが。

塾長が大学生だった頃、紙のデータをひたすらエクセルに入力するアルバイトがありました。1束で20万円の稼ぎになったので貧乏学生だった塾長にはありがたい仕事だったのです(※)。ただ1つ、入力の作業が大変なのが難点でした。
まず紙の枚数が多くて1枚あたりの入力項目が多いのです。1束で2500枚くらいでした。次に指定されたエクセルの表が横に長いのです。入力項目が多ければ表が横に長くなるのは当然です。それで画面を横にスクロールさせる操作と、紙の値を読み取って入力する操作の両方を行う必要がありました。
そんなこんなで、1枚あたりの作業に時間がかかりました。

そこでエクセルの「マクロの記録」や「フォーム」を使って入力専用の画面をつくりました。入力画面に数字を入力するだけで、自動的にエクセルの表にそれらを割り振ってくれるようにしたのです。それでかなり作業の効率が上がりました。1997年とか1998年とか、そのくらいの時代です。

まさにデジャブなんですよ。

(※)当時は紙のデータをコンピューターが読み取るOCR技術がまだ実用的ではありませんでした。そこで人間がコンピューターにデータを入力する作業が必要でした。コンピューターが安くなってIT化が加速するのと並行して、紙の資料をコンピューターに入力する仕事も増えたのでした。

つまり何が変わったの?

さて、

「プログラミングが不要になる?」

というウワサの話しに戻します。こうしたウワサによって塾長は

「じゃぁ、プログラミング教育なんて意味ないじゃん!」

という風評被害、もとい「早とちり」が出てくるだろうと心配しております。

鋭いみなさんなら、もうお判りでしょう。

  • 前: 命令を文法に従って組み立てる
  • 後: 部品をマウス操作で組み立てる

どちらも方法が違うだけで、やっていること(作業の目的)は同じです。

つまり、

  • 目的は変わらない!
  • 方法が変わっただけ!

ということです。
プログラミングを「組み立てる」という作業はあいかわらず残っています。

作業の「スタイル」が変わったに過ぎません。

ちなみに、上の事例で挙げた画像は、.bubble というプログラミング環境の画面です。
.bubble ではプログラムのことを「ワークフロー」と呼ぶそうです。
プログラムの流れを「コンピューターの作業手順」に見立てて組み立てるスタイルです。

変わったのはプログラムを組み立てる「スタイル」です。
相変わらずプログラミングしていることには変わりがありません。

プログラミング教育はどうなる?

このように見てくると、プログラミング教育の「あるべき姿」が理解しやすくなります。

特定のプログラミング言語の命令や文法を覚えさせても、あまり意味がないことが分かるでしょう。
プログラミングの「文法」や「スタイル」は将来のどこかで変わってしまうからです。

しかしコンピューターに「作業の手順を伝える」という作業そのものは、相変わらず残ります。
「コンピューターができる小さな仕事」を組み合わせて「より大きな仕事」を組み立てていく作業は、今後も必要です。
つまり、手段は変わっても「考え方」は残るというワケです。

こうしたプログラミングの「考え方」を、ちゃんと教えることがプログラミング教育のあるべき姿ということになります。
専門学校や高等教育なら直近の技術を教えても良いでしょうが、小中学校の生徒を捕まえて教えても仕方がないというワケです。
教えるなら、時代が変わっても残る部分、つまり「考え方」でしょう。

ところで「プログラミング教育」と言ってしまうと、専門学校のような授業を想像してしまう人がいて誤解されがちです。

実のところ「プログラミング教育の必須化」という言葉も、本当は、

「プログラミング的思考の教育の必須化」

という言い方なんですよね。文部科学省の正式な言い方はこっちの方です。
要するに、

手段や環境に依存しないように、プログラミングの「考え方」を指導してね。

という教育が義務教育で必須化されたものです。

その考え方の中で、もっとも大切なところが「最適解を見つける試行錯誤」です。
大人の世界では「問題解決」とか「カイゼン」などと呼ばれています。

模範解答が用意されていないような問題にチャレンジする訓練です。

こうした取り組みの中に出てくる「考え方」はプログラミングの考え方そのものです。

これが文部科学省が声を大にして「必須化だ」と主張したいことなんです。

ここをしっかり理解できている人は、騒がずに済むというワケです。

ただ「プログラミング的思考」という言葉が、回りくどいし、逆に分かりにくいと不評でした。
残念ながら、なかなかこの本当の言い方が広まらなかったのです。

今日では、たいてい省略して

「プログラミング教育」

と呼ぶようになっています。

ということで、いくら日本のIT業界で「ノーコード」がバズっても、プログラミング教育にはほとんど影響がないでしょう。

逆に大きな影響を受けてしまったとしたら、それだけ教育業界が腐っているということになります。

プログラミング教育に新しい知識はほとんど不要

とうことで、義務教育で必須化されたプログラミング教育。
ここで、そのあるべき姿をまとめておきます。

  • できるだけプログラミング言語の文法や用語を覚えなくても済むようにする
  • できるだけ目的を達成できる「最適解」を「試行錯誤」で見つけさせる
  • そのために失敗を次に活かすチャレンジ精神を育む
  • コンピューターの色々な使い方を実践させる

また、よくある勘違いについても、まとめておきます。

  • 特定のプログラミング言語や機械の特性を覚えさせる
  • 教師の用意した答えを模倣させる、作り方を全て解説してしまう
  • 失敗しないことを評価の最高点にしてしまう
  • 指導事例は事例でしかないのに手順書のように運用してしまう

人によっては大きな大きな価値観の変更が迫られます。

小中学生におけるプログラミング教育の理想を一言でまとめるとすれば、きっと次のようなものになるでしょう。

できるだけ、今まで学校の教科書で学んできた言葉だけを使ってプログラミングする

プログラミングの「考え方」を子供たちに要領よく伝えるには、こうするのが一番だと思います。
中には、

「1つのプログラミング言語をマスターすれば、根柢の”考え方”も身に着くはずだ。」

と主張される人もいます。
それも一理あります。

しかし、それは遠回り過ぎます。子供たちにも学校の先生にもストレスが大きすぎるでしょう。

限られた時間と成績評価制度の中で運用されることを考えますと、プログラミング言語の詳細を覚えさせるのは現実的ではありません。
プログラミング教育の必須化によって、新しく覚える知識が増大してしまえば、漢字書き取りや計算ドリルに取り組む時間が無くなってしまい、学校現場や子供たちの学びが破綻してしまいます。

また新しい知識の暗記が負担やストレスになってしまえば、肝心の「答えのない問題にチャレンジする」という取り組みがおろそかになりかねません。

プログラミング教育の為だけに、わざわざ新しい用語をたくさん用意してしまうのは、本末転倒と言えます。
何より、せっかく覚えても、おそらくその知識の多くは10年後に無駄になります。

良い意味での影響を期待

さて「いくら日本のIT業界で「ノーコード」がバズってもプログラミング教育にはほとんど影響がない」と書きました。

ただし、良い意味での影響は、むしろ期待しています。

人工知能の発達に伴って、すでに人々の意識は変わってきています。

  • 漢字のトメ・ハネ・ハライのちょっとした違いで×にされる
  • かけ算の順序を逆にしたら×にされる

とか、そのような炎上ネタがよくありますよね。
昔とちがって、今は「覚えなくてもよいこと」が広がりつつあります。

これと似たような意識の変化がプログラミング教育にも起こってくると思います。
つまり、

  • 小学生や中学生にプログラミング言語の文法を覚えさせる
  • 小学生や中学生に機械や電子基板の仕様を覚えさせる

という「勘違いした指導」が無くなっていくだろうと思います。

プログラミング教育の世界でも、関数名を覚えさせるテストとか、細かい文法テストとか、そういうのが今後は炎上ネタにはなってくるでしょうね。

時代によってすぐに変わってしまうような知識は、仕事や趣味で必要になってから覚えればよいのです。
もっと言えば、わざわざ覚えなくても、必要な時に必要な人が調べながら使っていれば、必要な分だけ勝手に覚えます。

義務教育でテストするようなことじゃありません。

日本と海外で異なる「プログラミング」の意味

そもそも日本で「プログラミングが必要なくなる!」というウワサが広まってしまった原因は何でしょうか?

海外ではぜんぜんバズっていないようです。

日本では実際にそう言っている人たちがいます。
彼らの名誉のために言っておきますが、もちろん決してウソを言っているワケではありません。ホントのことを言ってます。

実は、そういう人が言っている「プログラミング」と、世界で一般的に言われている「プログラミング」とでは、そもそも言葉の意味が違うのです。

プログラミングの意味が「日本と海外では違う」ということは、業界ではよく話題になります。
ざっくり説明すれば、次のような感じで意味が変わります。

  • 日本: プログラミング = コーディング(設計どおりにプログラムを書くこと、若手の力仕事)
  • 海外: プログラミング = コンピューターで世の中の仕組みを変えていくこと

ですから正確に言えば

「コーディング作業が不要になる!」

と言いたかったわけです。

確かに、プログラミングのほとんどは、過去の誰かが作ったノウハウの再利用です。
例えば、

「商品の個数を入力してクリックすると注文数が1つ増える」

みたいに、どこかで見たことがあるような処理があります。
よくある処理ですから、だれかがプログラミングして部品にしておけば、後の人はそれを再利用するだけで済みます。
このように、ありがちな処理をすべて「プログラミング済みの部品」にして用意していくと、最終的には、そういう部品の組み合わせだけで開発できてしまうようになります。

つまりテンプレート的な機能の寄せ集めだけで作れるようなアプリやシステムだったら、確かにコーディング作業は無くなりますね。マウス操作がその代わりになりますから。
上の写真のように、マウスで部品を持ってきて貼り付けていくだけで開発ができそうです。

なるほど、ホントだ!

そういうワケです。

しかし反対に、テンプレートの部品そのものを開発する人にとっては、相変わらずコーディングが必要です。テンプレートはどんどん新しく進化していくでしょうから、コーディングの仕事もなくならないでしょう。もちろん全く新しいサービスやアプリを開発する場合もそうです。

そう考えれば、ウソだ!

ということになるワケです。

ちなみに日本で「プログラマー」と言えば、どちらかというと「安月給」とか「辛い仕事」というイメージです。
最近は変わってきているかもしれませんが、塾長が技術者だった時はそうでした。
コーディングしか作業しないとすれば、そりゃ給料は上がらないでしょう。

一方、海外ではどちらかというと「中流階級以上の仕事」とか「高給取り」、「スマートな仕事」というイメージです。
世の中の仕組みを変えるのですから、色々な役割をこなします。その分だけ、そりゃ給料が上がるでしょう。
海外の方が夢があって華やかなイメージになります。

さて、日本と海外で「プログラミング」の意味が違うのは、どうしてでしょうか?

つまり、どうして日本では

プログラミング = コーディング

なのでしょうか?

それは日本が「超縦割り社会」だということに原因があります。「ピラミッド型の組織」だからと言っても良いでしょう。
誤解を恐れずに表現すると、

  • 設計する人(エライ、給料が高い)
  • コーディングする人(下っ端、給料が安い)

という身分制度が日本にあります。
大企業になればなるほど、この身分の壁が厚くなります。

「大量生産」の時代には、こうしたピラミッド型の組織が最も効率的とされていました。
そして多くの日本企業は今でもその体制が良いと信じられています。

「プログラミング」の意味を変えていくべき!

日本のピラミッド型組織の問題は、役割が「縦割り」になり過ぎていた、ということです。
「設計する人」と「コーディングする人」(プログラミングする人)が別という組織は、とても非効率なのです。
それに技術者の能力もたいして上がりません。

もちろん昔は良かったのですが、今でもそんなことをしていたら、企業も日本も発展しません。
どんどん海外に追い抜かれていきます。

なぜなら、昔とは違って、今どきのプログラミング言語や開発の環境は、とても高機能だからです。
開発がものすごく効率的にできるようになっています。

例えば、今どきのコーディングは、プログラムを見れば「設計の考え方が分かる」ようになっています。わざわざ細かい設計書を別に書く必要がありません。
つまり、設計すると同時にプログラミングが完成していく、という状況です。
こうなると「設計する人」と「コーディングする人」は同じ人で良くなります。

他にもいろいろあります

例えば、昔はサーバー側(大型のコンピューター側)と、ブラウザ側(スマートフォンやパソコンなど)とでは、設計やコーディングをする人が違っていました。
それぞれに使われている技術が違っていたからです。サーバー側はPHPやPythonで、ブラウザ側はJavaScriptで、という具合です。
ところが今はサーバー側もブラウザ側も同じ技術でプログラミングできてしまいます。例えばNode.JSという環境では、JavaScriptでサーバーもプログラミングできてしまいます。
実際、スクラッチ3.0はこの技術を使って開発されました。塾長もマイクラミングの開発で使いました。
こうなると「サーバー側」と「ブラウザ側」も同じ人で良くなります。

このように、どんどん1人でできることが多くなってきています。

ですから余計に1人が多くの役割を同時にこなした方が良いのです。
その方が開発が速いし、画期的なアイデアが採用されやすいのです。

海外に比べると日本の組織は、意思決定も開発のスピードも圧倒的に遅いです。
もうそろそろピラミッド型の組織では飯を食っていけなくなるでしょう。

よって「プログラミング」には、問題の設定や設計からコーディングまで、すべての意味を含めるべきでしょう。
つまり1人が色々な役割を同時にこなすことを、誰にも邪魔されないようにすべきです。

これから日本も「プログラマーが世界を変える」ような姿になっていくべきだと思います。

ピラミッド型の組織の中で「プログラミング」を「下っ端がコーディングだけすること」などと決めつけているようでは、日本は成長しません。

ちなみに「1人でできることが増えてくる」ことは、プログラミングに限った話ではありません。
例えば放送の世界でもそうでしょう。

YouTuber は1人で企画、取材、撮影や録音、編集、放送や広告宣伝の全てをこなしています。
コンピューター技術の発達で、放送のあり方が急速に変わっています。
YouTubeに乗り遅れた有名人たちがclubhouseに殺到している、なんて揶揄されているほどです。

私たちを取り巻くコンピューター技術が、それだけ目まぐるしく変わっているということです。

このような変化に伴って、すでに組織の潮流は、ピラミッド型の組織からネットワーク型の組織に変わっています。
1つの大きな組織が大きなモノを生み出す形態から、1人ひとりが独立して何かを生み出しつつ、連携して大きなモノを生み出す、そういう形態に変わってきたのです。

他にも色々な変化が発生しています。

  • 秘密主義からオープン主義へ
  • 所有からシェアへ
  • 一握りの天才から集合知へ
  • 大型顧客からロングテールへ
    ・・・

しかも急速な変化です。

ピラミッド型の組織では、こうした変化に対応できないのです。

ですから、これまで優秀なプログラマーや企業は、みんな海外へ出て行ってしまいました。
日本に残るのが、変化を察知できない人や組織だけ、となってしまっては悲しすぎます。

これから日本も「プログラミング」の意味を海外のように変えていく必要があります。
そのためには組織もネットワーク型に変えていくべきでしょう。
日本の内部から「世の中の仕組みを変える」ような国に変えていく必要があります。

このようにプログラミングの意味を変えることと、組織を変えることは、切っても切り離せません。
日本も早く変わっていくべきでしょう。

もちろん、新しいプログラミングの教育、つまり色々な役割を同時にこなしたり、一連の作業の流れを一通りこなしたりするような人材を育成していくことが前提になります。

だからプログラミング教育の必須化が待ったなしになったのです。

コロナ禍でテレワークが増え、並行してGIGAスクールが加速しています。
これらが起爆剤の1つになる可能性も有ります。

「プログラミング教育」を「モノづくり教育」にしてはならない!

せっかく必須化されたプログラミング教育。
これを

「モノづくり教育」

だと勘違いしてしまったら、悲しい失敗に終わってしまうでしょう。
過去に何度も繰り返してきた失敗です。

趣味でやるのはかまいませんが「義務教育としてやるのは間違い」といことです。

上で述べたように、モノづくりの現場で使われている技術は日進月歩です。
技術は10年もたたないうちに変わります。

ですから、いま日本で使われているトレンドの技術を子供たちに覚えさせても、あまり意味がありません。
次のことは全て間違った教育です。

  • 小学生に今からプログラミング言語の文法を覚えさせる
  • パソコンのコマンドを覚えさえさせる
  • 中学生にエクセルの関数名を暗記させ、書き取りテストをする
  • モーターやLEDの特性や制御の手法を細かく覚えさせる

まったく英才教育にはなりません。

何度も書きますが、趣味でやるのはかまいませんが「義務教育としてやるのは間違い」という意味です。

プログラミング教育でやるべきことは、モノづくりの技術などではありませんよ。
新しくトレンドの技術を覚えさせる必要なんて、全くないですからね。

最適解を見つける訓練ですよ。

技術が変わっても残る「考え方」の部分。
要するに「世の中の仕組みを変える方法」を教えていくことです。

それがプログラミング教育のあるべき姿です。

間違っても技術者の早期育成などと矮小化してはいけません。
そんな目先の小さなものに注目していると、大きな目的を見失ってしまいます。

もしも学校の予算が無くてLEDやロボットが買えないなら、買わなくてもよいです。困りません。
最低限、コンピューターだけあればよいです。
あるものを組み合わせてできる範囲で最適解を考えさせれば良いだけです。

有るもので間に合わせて指導した方が、むしろトレンドの技術に依存しないプログラミング教育ができると思いますよ。
そう考えると、本当はもっと早くプログラミング教育ができたはずでした。

これからの時代、プログラマーの仕事は「世の中の仕組みを変えること」です。
人間の欲求の姿はあまり変わらなくても、社会の仕組みは、どんどん変わるでしょう。

日本人がやらなければ海外の人がやってしまいます。
海外の人がやってしまったら、日本人は、それをお金を出して買うしかありません。
日本人も新しい仕組みを作って海外に売らなければ、日本からお金が出ていくだけですよ。

YouTuberの中には「プログラミングスクールに通っても稼げない」などと主張する人がいますね。

その「プログラミング」の意味、そろそろ卒業した方が良いですよ。

 


ヒーローズ植田一本松校の進学実績

卒塾生(進路が確定するまで在籍していた生徒)が入学した学校の一覧です。
ちなみに合格実績だけであれば更に多岐・多数にわたりますが、当塾の理念に反するので生徒が入学しなかった学校名は公開しておりません。

国公立大学

名古屋大学、千葉大学、滋賀大学、愛知県立大学、鹿児島大学

私立大学

中央大学、南山大学、名城大学、中京大学、中部大学、愛知淑徳大学、椙山女学園大学、愛知大学、愛知学院大学、愛知東邦大学、同朋大学、帝京大学、藤田保健衛生大学、日本福祉大学

公立高校

菊里高校、名東高校、昭和高校、松陰高校、天白高校、名古屋西高校、熱田高校、緑高校、日進西高校、豊明高校、東郷高校、山田高校、鳴海高校、三好高校、惟信高校、日進高校、守山高校、愛知総合工科高校、愛知商業高校、名古屋商業高校、若宮商業高校、名古屋市工芸高校、桜台高校、名南工業高校

私立高校

中京大中京高校、愛工大名電高校、星城高校、東邦高校、桜花学園高校、東海学園高校、名経高蔵高校、栄徳高校、名古屋女子高校、中部第一高校、名古屋大谷高校、至学館高校、聖カピタニオ高校、享栄高校、菊華高校、黎明高校、愛知みずほ高校、豊田大谷高校、杜若高校、大同高校、愛産大工業高校、愛知工業高校、名古屋工業高校、黎明高校、岡崎城西高校、大垣日大高校

(番外編)学年1位または成績優秀者を輩出した高校

天白高校、日進西高校、愛工大名電高校、名古屋大谷高校

※ 成績優秀者・・・成績が学年トップクラスで、なおかつ卒業生代表などに選ばれた生徒

 


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〒468-0009
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TEL:052-893-9759
教室の様子(360度カメラ) http://urx.blue/HCgL

進化のカギ!?最適解リテラシーを試されているのかも?

最適解リテラシー640_480

塾長です。

今日は雨です。
待望のアトラス彗星は崩壊して暗くなってしまったようです。
そんな悲報を聞いてしまうと、まぁ、雨でも良いと思ってしまいます。

とりあえず人並に愚痴を言わせてちょうだい

ここしばらく人間らしい文章を書いて来なかった気がします。
情報を取捨選択する、集約して伝える、マニュアルに仕立てる・・・
コロナの対応や行政指示への対応に追われた毎日でした。

まるでコンピューターにでもなったかのようでした。
来る日も来る日も、情報の渦に飲まれては飲みこみ、を繰り返していました。
ここ最近書いたブログの記事なんて、どれもひどいものばかり。

塾らしい文章なんて、ぜんぜん書けていません。
ZOOMの使い方やオンライン授業のやり方について書いたブログばかりです。
もう、すっかり学問からほど遠い内容が並んでいますよ。

そんな記事に対しても、一部の塾生や他の塾の先生方から
「解りやすい」
「助かった」
などとお褒めいただきました。

教育者としての本分ではなかったにしろ、褒められれば嬉しいものです。
これは不幸中の幸いでした。
そうした喜びが私を人間に戻してくれていたのかもしれません。

コロナのやつ、早く片付いてくれ!

そう思います。

コロナから学ぶことは多い

さて、そんな大迷惑なコロナ野郎ですが、ヤツらは私たちに色々な挑戦を突き付けてきました。

  • 在宅勤務できない会社は生き残れない
  • オンライン指導できない塾は生き残れない

このような極論を好む人も出てきました。
確かに技術的な挑戦を突き付けられたのは事実でしょう。

しかし塾長は、むしろ文化的な面の方が気になっています。それは、

  • 最適解リテラシーが無い人は生き残れない

という方が本当ではないかと個人的に思うわけです。

「最適解リテラシー」を流行らせたい!?

ここで

「最適解リテラシー」

という言葉は、たった今、塾長がほろ酔い気分で作りました。
3密厳禁なので、独りでビールを飲んでいるわけなんですけれど。

なぜ、こんなことを言い出すかと申しますと、それは

「コロナ対策には正解がない!」

という現実に、日々直面しているからでございます。

例えば、

来週は教室を開けた方が良いのか、閉めた方が良いのか・・・

ということを決めなければいけなかったわけです。

全員が違う答えを持っている

他の塾はどうしているのかな、と聞いてみました。
しかし、本当に、もう、10人いたら、10人がみんな違うことを言うんですよ。
情報を集めれば集めるほど、考えれば考えるほど、どんどん決められなくなってくるんです。

むしろ情報が少ない人の方が決断しやすかったんじゃないでしょうか。

閉めても正解?
開けても正解?
オンラインが正解?

それで結局、私はどうしたかって?

もうキレてしまって「全ての正解」を並列に実行したんですよ。

  • 対策したうえで通っていただく
  • お休みして、学校が再開した後に振り替えていただく
  • オンライン授業に切り替えていただく

3つの選択肢を用意して、こちらとしては全部を並列で対応することに決めました。

保護者様のご要望も、本当に3者三様。温度差も、お困り具合も、みんなそれぞれでした。

それからは準備が大変でした。
連日連夜、夜中2時とか3時とかまで準備作業に追われました。

振替の調整、講師シフトの見直し、ZOOMの勉強、それをご家庭や講師に説明できる資料の作成、講師研修などなど・・・

しかも、それらをメンテナンスするイベントが次々に起こります。
政府がどこに緊急事態宣言、愛知県が独自に緊急事態宣言、名古屋市が休校延期、政府が全国に緊急事態宣言・・・

死ぬかと思いました。

あれ、また愚痴になってた。
ダメですね。
ここから愚痴禁止です!

持続可能でない取り組みは不正解?

まぁ、愚痴を言うくらいなら止めとけよって話です。
過労死になったらシャレになりませんし、経営者のそういう努力は誰も褒めてくれません。

ということで、塾長が「全部やった」という選択は持続可能な取り組みではありませんでした。

長い目で見たら、私が取ったこの行動は不正解です。

視点を変えれば不正解も正解

じゃぁ、完全に不正開花と言えば、そうでもないのです。

模範解答が無いように、完全な間違いというのもないのですよ。

保護者様の価値観やご家庭の事情はさまざまで、みんなの行動をすぐに1本化することはできません。
必ず移行期間というものが必要になります。
だから選択肢を用意できたことは、ご家庭での混乱を最小限にできたのだろうとは思います。

ですから短期的に見れば、私の行動は、正解の1つになるわけです。

塾長にとっては、ZOOMの使い方やオンライン授業のノウハウを身に着ける勉強にもなりました。

ですから塾長的には、長期的に見ても正解になるわけです。

本当に問われていること

要するに、

誰も「模範解答」を言えない中で「最適の解答」を出せるのか?

それが問われたわけです。
そして今でも問われ続けているのですけれど。

多数決で49:51になったらどうしますか?

みなさんは、国会とか政治とかって、

「どうしてあんなに話が進まないんだろう・・・」

などと疑問に思ったことはありませんか?

議員さんたちは国民の代弁者ですから、どの議員さんの意見も、それぞれに正しいわけです。
誰もが正しい主張をするもんだから、基本的に、まとまらないんです。

どんなに意見調整をしたって「賛成100:反対0」にはなりません。
むしろ議論が深まれば深まるほど「賛成51:反対49」に向かうのかもしれません。

だから決まる時は、それこそ揉みくちゃになります。

実は塾長がサラリーマンだった時に、役員の方から正にそうしたアドバイスをいただいた記憶がありました。
会議が全然まとまらなくて、飲み会の時に愚痴をこぼしていたら、

「君、リーダーの仕事がそれだよ。賛成51:反対49になった時に決断して責任を取る事だよ。」

ってね、そう言われました。

人工知能は模範解答を示し、人間は最適解を示す時代

酔いも冷めてきたので、そろそろまとめます。

今回の新型コロナウィルス(COVID-19)の対応について、色々な人たちが色々な対応をしています。
色々な立場の人たちが、色々な決断をしてきました。

きっと、それらは全て正解なのだと思います。

模範解答は誰も知りません。
正解があったとしても1つではありません。
自分で決めるしかありません。

だとすれば、私たちがすべきことは何でしょうか?

塾長は、

「今は最適だと思っている答えを、さらに磨いていく。」

結局のところ、人間に残されている行動は、この1点だけに収れんしていくのではないかと思います。

最適解を磨く時代に批判は価値があるのか?

そう考えて来て、最後に1つ大きな疑問が立ち上がってしまいました。それは、

これからの時代に「批判」は価値があるのかどうか?

です。
批判をする行為は、存在しないはずの「模範解答」を期待している行為に見えます。

だとすれば、それは無駄な行いなのではないか?

そんな風に思えてきてしまうのです。

実際、今は批判をする人に批判が集まることが起きやすいです。
野党が与党を激しく非難しても、支持者が増えない現実があります。

もちろん、批判は健全な民主国家には必要だという意見が正常であり、正しいと思います。

例えば、コロナ問題で経済的な対策として、牛肉券ではなく10万円給付が決まったのは、国民による批判の成果だと喜ぶ声があります。
もちろん、それはそうなのでしょう。

ただし、それは牛肉券 VS 現金支給、という代案ありきの構図だったからこそ、そう言えたのではないでしょうか。

つまり代案無き批判には、やはり価値がないのではないかと思うのです。

塾長はテレビや新聞を見ては、いつも思ってきたことがあります。

  • どうして批判する人は、提案をしないのだろうか?
  • どうして大卒の人の割合が増えているのに、提案できる人の割合は増えないのだろうか?
  • どうして批判の中に嘘や極論が混じりやすいのだろうか?
  • どうしてテレビは専門家でもない素人にコメンテーターをさせているのか?
    (代案を示せない人にコメントさせて時間を無駄にするのか?)
  • 1つの批判をする間に10個の解決案を集められる。もう、そういう時代なのではないか?
  • すべての解決案を並べて比較する議論をどんどんすればよいのに、なぜしないのか?
  • 語尾に「ない」や「は嫌い」をつければ批判できてしまう、その不毛さになぜ気づかないのか?
    (否定には創造性が不要で、肯定には創造性が必要であることに、なぜ気づかないのか?)
  • 本当に批判は今でも必要なのだろうか?

コロナ問題への対応を考えてきた時、それは実感に変わりました。

模範解答なんて無いのに、それでも正解がたった1つだと信じ込んでいる

何か混乱があるとすれば、これが諸悪の根源ではないでしょうか。
塾長は、そのように思うわけです。

模範解答が用意されているような問題。例えば、

計算で導く事ができる。
論理的に1つに帰結できる。
確率的にもっとも可能性の高いものを示すことができる。

そのような問題は、コンピューターが最も得意とします。
こうした領域の仕事があったとしても、遅かれ早かれ、コンピューターやロボットに役割が移るでしょう。

学校の勉強や問題集の多くは、模範解答があります。
ですから学校の勉強もコンピューターがサポートしていくのは想像しやすいです。

しかし、それはあくまでも初等教育までです。

たとえコンピューターが先生だとしても、私たちは人間なのです。
だからコンピューターに成ることを目指してはいけません。

生身の人間が、コンピューターに速さや正確性で挑戦するのは無謀です。

必ず、その次のステップに行かなければなりません。

「模範解答がない問題にチャレンジする!」

という次のステップに行く必要があるわけです。
そういう運命が待っています。

人間らしい活動とは、速さや正確さを追求する事ではないでしょう。
最適解を決断し、そして次の最適解をもっと良くするように努力することだと思うわけです。

最適解を求めて実践し、改善もさせるような教育を早く!

うわー、まとまらねー。

えーと、つまり、そのー・・・。

模範解答を速く正確に大量に出すようなことは、コンピューターを使うことで解決しましょう。
人間が手作業でやって消耗しないこと!

そして、

人間は、最適解を求め、まずはそれで実践したうえで、更に最適解を磨くこと!

そうやって世の中は進化していくのでしょう。

批判する暇があったら、最適解を磨け!

つまり、

愚痴を言っている自分に反省ですな!

 

外出は自粛ですが、みなさん、よい週末を!

 


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