塾長です。
たまに虚構新聞の記事を見て爆笑しています。
ある虚構新聞のファンから次のアドバイスをいただきました。
科学面の「『2と1は等しい』数学界で論議」という記事が面白いよ。これ教育に使えるんじゃない?
2008年の記事です。
こんな素晴らしい記事を見過ごしていたとは。
Contents
1=2の証明!! ホント?ウソ?
まず問題となっている「1=2」の証明を見てみましょう。
問題となった証明
上の記事からの抜粋と補足です。中3以上の知識で読めるでしょう。
因数分解を使いますが、数学の好きな生徒ならば、中学2年生でも何とか読むことはできるでしょう。
$$ a=b $$
両辺に $a$ をかけて
$$ a^2=ab $$
両辺から $b^2$ を引いて
$$ a^2-b^2=ab-b^2 $$
両辺を因数分解して
$$ (a+b)(a-b)=b(a-b) $$
両辺を $(a-b)$ で割って
$$ a+b=b $$
ここで $a=b$ であったから
$$ 2b=b $$
両辺を $b$ で割って
$$ 2=1 $$
むむむぅ・・・確かに結論が「2=1」となってしまいました。
どうでしょう?
大真面目な質問
この証明は正しいと思いますか?
数学では、たった1つでも反例を言えれば間違いと言えます。
逆に言えば、何も間違えを指摘できなければ「正しい」ことになってしまいます。
もしも上の証明の間違いを言えなければ、みなさん、大変ですよ。
1=2が正しいとなれば、また小学校から勉強のやり直しです。
それは嫌です。
何とかして証明の間違いを見つけたいところです。
いかがでしょう?
証明のどこが間違いなのか、みなさんは分かりますか?
どうしてこうなった?
計算のルール。たくさんあります。
その1つでも無視して計算してしまうと、このような詭弁が生まれてしまいます。
もちろん冗談としては、なかなか面白い証明です。
やってはいけないルール
それはさておき、
上の証明で無視したルールが1つあります。
それは何でしょうか?
このルールを無視してしまうと「何でもあり」の結論を好きなだけ導くことができます。
そのルールとは、
0で割ってはいけない
です。
このルールに違反してしまった計算のことを、
ゼロ除算
と呼びます。まるで犯罪名のような名前までついています。
教科書で明記されているか?
ゼロ除算
これについて、いつ学校で教わるのでしょうか?
割り算は小学3年生で習います。
しかし小学校では「指導しなくてよい」というスタンスです。
ただし一部の教科書では、国語的な意味で「答えは0」と解釈できる場合を紹介しています。
中学の教科書でも「0で割ることは考えない」としています。
これも、あまり明確に「0で割らないように注意しろよ!」と教えることはないようです。
このルールを明確に意識するのは、高校数学からです。
ゼロ除算を特別に取り上げるページは無いものの、式の証明や場合分けの過程で何度となく教わります。
どこでゼロ除算をしてしまったのか?
さて、話しを戻しましょう。
冒頭の証明のどこでゼロ除算を犯してしまったのでしょうか。
これは証明の式に、具体的な数字を当てはめれば分かりやすいでしょう。
特に次の式以降に着目です。
証明の中で、次の行に注目です。
$$ (a+b)(a-b)=b(a-b) $$
ここで $(a-b)=0$ ですから、この式は、
$$ (a+b)\times 0=b\times 0 $$
ということです。
ここで両辺を $(a-b)$ で割る、つまり $0$ で割ってしまいました。
このように、0で割ってしまうルール違反をしていました。
なぜ0で割ってはいけないの?
それでは、そもそも0で割ってはいけない理由、なぜでしょうか?
破壊的だから
数学者の厳密な説明はさておき、まずは良くないことが起こる様子を経験しましょう。
上の式で見たようなことを、具体的な数字に置き換えてみれば分かりやすいです。
$$ (a+b)\times 0=b\times 0 $$
この部分をさらに
$$ 100\times 0=5\times 0 $$
などと書いてみましょう。
これは右辺も左辺も確かに $0$ となって正しいです。
しかし両辺を $0$ で割ったらどうでしょう。
$$ 100=5 $$
とたんに話がおかしくなります。
このように
「0で割る」
を許してしまうと、33=101 のような詭弁をいくらでも作れてしまいます。
0で割ることに
「意味が定まらない」
ので、それを逆手に取って
「どのような意味にも設定できてしまう」
とできてしまうからです。
これは、かなり破壊的です。
一般に、
$$ x\times 0=y\times 0 $$
を満たすような $x, y$ は「何でもよい(不定)」
です。
よって
「0で割る」
を許してしまうと、上で見たように
何でも=何でも
という関係をいくらでも作れてしまい、おかしくなります。
数の世界が破壊されてしまいます。
よって、0で割ることを安易に許してはいけません。
そういうルールです!
意味が分からないから
そもそも「0で割る」とは、どういうことでしょうか?
例えば
$100\div 5$
は、
「100を5等分にした内の1つ」
または
「100の中に5がいくつ入るか」
などという意味になります。
試しに後者の意味だとします。
では、
$100\div 0$
の計算は、どうなるのでしょうか。
「100の中に0はいくつ入るか?」
なぞなぞなら「2つ」というトンチも許されますが、割り算の答えにはなっていません。
かと言って、答えが分かりません。
「そもそも0の何個分?」
という意味が分かりません。
0は何個集めても0だからです。
計算が終わらないから
そこで100歩譲って、
$100\div 5$
から出発して、「割る数」の5を、どんどん小さくして0に近づけようと思います。
$100\div 5 = 20$
$100\div 0.5 = 200$
$100\div 00.5 = 2000$
・・・
$100\div 0.00000000 \dots 005 = 2000000000 \dots 00$
このように、割る数を0に近づければ近づけるほど、答えは無限に大きくなってしまいます。
これを繰り返していけば、いつか「0の何個分」か答えらえれそうです・・・
・・・しかし、割る数はどこまでも小さくできます。
出てくる答えも、どこまでも大きなります。
この作業は、いくらでも続けられます。
終わりません。
永遠に続きます。
結論が出ないから禁止
そして、いくら続けても、
「0で割る」
の結論が出ません。
宇宙が終わる頃には結論が出るのでしょうか?
それも分かりません。
さらに、良くないことがあります。
割られる数が100であろうと1であろうと、2であろうと、とにかく
「答えが無限に大きくなり続ける」
ことに変わりがありません。
だからといって、
100÷0
と
3÷0
が
無限の先で同じ答えになっているのか、あるいは違う答えになっているのか、それも分かりません。
このように「0で割る」という計算は、いくら考えても答えを特定できませんでした。
だから「0で割る」という計算の定義ができないことになります。
「0で割る」
とは
「わからない」
または
「永遠に計算が終わらない」
または
「そもそも計算の定義ができない」
ということになるわけです。
だから、
「0で割るな!」
となったわけです。
プログラミングでも禁止
プログラミングの世界、もっと言えば、コンピューターを使う世界でも、
「0で割ってはいけない!」
というルールが徹底されています。
プログラマーならだれでも
ゼロ除算
という悪魔を知っています。
これが出てきてしまうプログラムを書いてはいけません。
さて、実際にやったらどうなるのでしょうか?
試しに、Pythonというプログラミング環境で
$5 \div 0 $
を計算した結果が次の画面です。
ちなみにプログラミングでは「5÷0」のことを「5/0」と書きます。
“ZeroDivisionError: division by zero” (0で割ったというエラー)
というエラーが表示されて、怒られてしまいました。
近代的なプログラミング環境では、コンピューターに「÷0」を計算させる前に、その式を検出してエラーを出すようになっています。
コンピューター全体が止まってしまったら大変ですからね。
このようにコンピューターの世界でも「0で割る」は禁止です。
ですからプログラマーの世界では「ゼロ除算」と言ったら、それはバグ(*)の1つを指します。
これが本当に計算されてしまうと、最悪の場合、コンピューターが止まってしまいます。
(*) プログラムの不具合のこと
勉強したことを笑いに活かす
今回は虚構新聞の昔の記事から数学のお話をしました。
虚構新聞はフェイクニュースのサイトです。
このようにウィットの利いた面白いニュースをでっち上げるジョークサイトです。
文字通り「虚構」の新聞ですね。
このような分野では有名で、すでに不動の地位とも言えます。
本当のことを知っている人だけが楽しめます。
勉強したことをジョークに活用する。
そんな勉強の応用もあるんですね。
虚構新聞の記者たちの仕事は楽しそうです。
何に価値があるのか、何が仕事になるのか。
やってみないと分からないものです。
キャリア教育のネタにもどうぞ。
ゼロで割ったら答えが0?
最後に少し補足です。
特定の文脈において「0で割った」ときの答えを定義することは可能です。
例えば、
300gのケーキを100gずつ分けました。何人に配れるでしょう?
という文脈があったとします。この計算は、
$300 \div 100 = 3$
ですから、答えは
3人
となります。
つまり、この文脈では「割り算の答え」は「配れる人数」を意味します。
この文脈を前提として、
300gのケーキを0gずつ分けました。何人に配れるでしょう?
を考える場合はどうでしょう。同じように計算式は、
$300 \div 0 = ?$
となりますね。
もちろん式だけ見れば計算に困りますが、文脈から答えを決めることはできます。
答えが分からない → 配れる人が決まらない → 配れない → 配れる人数は0人
このように社会的な意味から答えを導いて、それに合わせて
$300 \div 0 = 0$
と無理やり決めてしまうことができます。
こうして、この文脈の中では、
「0で割った答えは0人」
と決めることができるでしょう。
実際、小学3年生の一部の教科書では、このような考え方を紹介しているコラムがあります。
ただし、あくまでも考え方の1つにすぎません。
こうした教科書の影響かどうか分かりませんが、中には、
「0で割ったら0だよ。」
と覚えてしまっている人もいます。
もちろん、これは早とちりです。
常には成り立たないからです。
これはあくまでも、上のような文脈だけに通用する決め方です。
数式に対して常に言えるものではありません。
つまり、
「ローカルルール」
にすぎません。
このように、0で割ったときの答えを決めるのは「特定の文脈上の都合」です。
それは数学というよりは、国語や社会、あるいは工学のお話しになります。
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